一日お兄ちゃん
わたし、お兄ちゃんが欲しかったんです。一日だけでいいから、ネズさんがわたしのお兄ちゃんになってくれたらいいのにな。
ある日突然、ネズさんの前でぽつりとそう漏らしてしまった。しまった、と思ったけれどネズさんは意外にもそれを快諾してくれて、一日だけ、お兄ちゃんとしてわたしの買い物に付き合ってくれることになった。
そして今日、待ちに待ったお兄ちゃんデーがやってきた。早めに着くように家を出たつもりだったけれど、わたしが待ち合わせ場所へ着く頃にはネズさんはもう到着していて、長い脚を交差させて壁にもたれかかっていた。
わたしはひどく緊張していて、いつもの服装も素敵だけど私服姿もかっこいいな、わたしなんかには勿体ないよやっぱり、ああどうしよう、なんて声もかけられず遠くから見とれていたら、わたしに気づいたネズさんがひらひらと手を振ってくれた。あ、あ、ネズさんがこっちを見てる。
「おはようございます。今日は一日、おまえの『お兄ちゃん』になるんですよね。実はちょっと楽しみにしてたんですよ」
え!?わ、わたしもです……!なんて言えるはずもなく、よろしくお願いしますと慌てて頭を下げた。「じゃあ行きましょうか」と手を差し出されてさっそく混乱する。
「行き先、けっこう混んでるんでしょう。かわいい妹とはぐれたら大変なんで、ほら」
ネズさんは平然とそう言ってのけた。まあ確かに、これから行く場所はいつでも混雑しているし、それならまあ兄妹としては何もおかしくないのかな、とおそるおそる手を取った。
それにしたって妹に向かって「かわいい」だなんて……!ネズさんは何も考えず言ってるのかもしれないけれど、こっちはどぎまぎしてしまう。
そうだ、違うこと考えよう。ネズさんの手、とっても大きいなあ。あったかくて、指が長くて、ずっと握っていたくなっちゃう……はぁ……ネズさん……。
ああだめだ、わたし一人で舞い上がってしまう。どきどきしてるの、繋がれた手のひらからぜんぶ伝わっていたらどうしよう。
何を考えても恥ずかしくなってしまうからどうにもならなくて、あたふたしながら目的地へ向かった。
*
ずっと来たかった大型ショッピングモール!初めての場所にわくわくして、緊張していたことなんてすっかり忘れてしまった。気づいたら何時間も夢中で歩き回っていて、わたしの個人的な買い物にネズさんをずっと付き合わせてしまった。
さりげなく荷物を持つのも手伝ってくれて、「申し訳なさすぎるのでお礼をさせてください……!」と申し出た。
「そんなこと気にする必要ねえんですけどね。今日はおれたち兄妹ですし、初めからおまえのお買い物に付き合う約束でしたから」
ネズさんはそう言うけれど、それじゃわたしの気が済まないんです、と駄々をこねた。今日のわたしはネズさんの妹だし、わがままの一つや二つくらいなら許されたい。
「じゃあ、おれに似合いそうなアクセサリーでも選んでもらいましょうかね。普段使いできそうなやつをずっと探しているんですよ」
あまりにもわたしが折れないので、ネズさんが仕方ないですねと笑って提案してくれた。お兄ちゃんがわたしを頼ってくれている!という事実がとっても嬉しくて、わたしは俄然やる気になった。
*
──やる気に満ち溢れていたのもつかの間、とってもお洒落なアクセサリーショップに足を踏み入れて、わたしのやる気はみるみるうちにしぼんでしまう。普段あまりアクセサリーの類いを身につけないので、こういうときに何を選んだらいいのか全く分からなかった。
慣れない雰囲気の店内に半泣きになりながら、頑張ってネズさんに合いそうなものを探す。探す、探す……けれど、よく分からない……あっ、これとかいいかなあ。うーん、難しい。どうしよう……。
「これとこれ、どっちがいいと思います?」
コダックみたいに頭を抱えていたわたしは、ネズさんに声をかけられるまで彼が何を見ていたのか全く気づかなかった。呼びかけられたので慌ててネズさんの手元を見る。
ネズさんが両手に持っているのは、どちらもたぶん女物のアクセサリーだ──黒い石が耳元で艶めくちょっと大人っぽいイヤーカフと、ネズさんの瞳みたいに透き通った薄緑色の石のペンダント。両方ともすごく素敵な、見るたびにネズさんを思い出すような色合い。プレゼントだろうか?
「おまえが一生懸命に探してくれているのを見て、おれも妹に何か買ってやらねえとなと思いまして。……プレゼントなんて普段はしないんで、たまにはね」
やっぱりそうだった!うーん、どっちも素敵で選べない。だって、こんなものをもらっちゃったら、それだけでもう一生の思い出になってしまう。
だけどきっとわたしのものじゃないし、期待なんてしちゃいけない、いやでも今日のわたしはネズさんの妹で、これはもしかしたら……。なんて、わたしの意思なんておかまいなしにどきどきが速くなっていく。
「妹って、アニキから何をもらったら嬉しいんですかね?おまえも今日は『妹』ですからね。参考にしたいんで、おまえのアドバイスを聞かせてください」
──ああ、やっぱり。「妹」って、わたしじゃない。
「普段」を語る口ぶりから、なんとなく察しがついてはいた。大切な存在を思い浮かべ、そっと目を伏せるネズさん。今日は何時間も一緒に過ごしたのに、こんな表情、初めて見た。
こんなに優しいお兄ちゃんがいるなんて本当にうらやましいなあ、わたしもネズさんの妹になりたかった、ネズさんに大切に思われたかった、なんて余計なことを考えてしまう。
でもこんなこと考えちゃだめだ。わたしとネズさんはあくまで今日だけの関係。ネズさんが優しいからわたしの茶番に付き合ってくれているだけで、わたしたちは他人、期待しちゃだめ、与えられる以上のものを求めてはだめ。頭ではそう思っても心のほうはどうにも言うことを聞かなくて、思わずうつむいた。
ネズさんがせっかく大切な時間を割いてわたしに付き合ってくれたのに、こんな気持ちを抱いて勝手に落ち込んでいることが申し訳なくて、もやもやしているのを悟られたくなくて、わたしは自分の気持ちをごまかすように慌てて笑みを浮かべた。
そのとき自分が何と答えたのかも、結局ネズさんにどんなアクセサリーを選んであげたのかさえもよく覚えていない。今日一日とっても楽しかったはずなのに、最後の最後にわたしが余計なことを考えたせいで何もかも台無しになってしまった。あーあ、わたしって本当に、
*
「今日は楽しかったですね」
帰り道、ネズさんが言った。とっても楽しかったはずなのに未だもやもやが晴れなくて、何と返せばいいのか分からなくて、わたしは曖昧にうなずいた。
そうしたら隣にいたネズさんがいきなり足を止めた。わたしの腕を掴んで引き寄せて、耳元にネズさんの唇が近づいた、あ、ああ、近、近い……。
「目を閉じてください」
そう言われたので大人しく言う通りにしたら、ネズさんの気配が背後に回った。え、な、何?わたしの首元でカチャカチャと音が鳴って、「いいですよ」の声でおそるおそる目を開けたら、独特な形のチャームがわたしの胸元で煌めいていた。あれ?これ、見たことある……。
「一生懸命おれのために頑張ってくれた、かわいい『妹』にプレゼントです。これ、おれとお揃いなんですよ」
そう言ってわたしの隣に戻ってきたネズさんが首元をとんとんと指差した。ネズさんの胸元で光るいつものアクセサリーと、今わたしがつけてもらったものを見比べた。えっ、あ、同じ形……そうじゃなくて、いやそれも気になるけど、あれ、あの、プレゼント、これ、わたしに……。
「ふふ、驚いてますね。もしかしてマリィへのプレゼントだって勘違いしてたんですか?確かにマリィも大切な妹ですけど、今日はおまえとの日なんだから、おまえのことしか考えてませんよ」
ネズさんにずばりと言い当てられて驚く。ずっと考えて一人で落ち込んでいたことを、いとも簡単に見抜かれてしまった。わたしのことしか考えてない、なんて、勘違いしてしまいそうになる。
あたふたして、ありがとうございます……!とだけ伝える。嬉しい。ネズさんがわたしのためだけを思ってくれていたなんて、わたしなんかのために自分とお揃いのアクセサリーをプレゼントしてくれたなんて。未だにちゃんと信じられないけれど、すごく嬉しいです。
「今日はどうでしたか?おれは久々に色々見て回れてよかったです。かわいい『妹』とたくさん話せて楽しかったですよ」
ネズさんがまっすぐわたしを見つめてくれたので、わたしも楽しかったです!と正直な気持ちを伝える。
ネズさんが本当にお兄ちゃんになってくれたらなあってずっと考えてました。まだ帰りたくないなあ。今日が終わったら『お兄ちゃん』と『妹』の関係は終わりだと思うとちょっとさみしいです。明日からもお兄ちゃんとずっと一緒にいたいな……。
ぽつりぽつりと本音をこぼす。あ、あ、言わなくていいことを口走ってしまった。どうしたらいいか分からなくなって、気まずい雰囲気をごまかしたくて、あはは、すみませんこんなこと、と力なく笑う。
「大丈夫ですよ、今日で終わりじゃありません。今日が終わってもまた一緒に出かけましょうね。ほら、おいで」
ネズさんが腕を広げたのでおそるおそる近づいたら、わたしを引き寄せて抱き締めてくれた。ネズさんの暖かい身体に包み込まれて、どきどきが速くなっていく。
「それより、……おれは『お兄ちゃん』でいいんですか?今日の『デート』、楽しかったですよ」
低い声で囁かれて全身が硬直してしまう。身体じゅうの血がどくんどくんとすごい勢いで巡っている。え、え、それって……デートって……!?
「ふふ、照れてますね。おまえって本当に反応がかわいいですよね、ついいじめたくなっちまいます」
ネズさんがくすくすとわるい声で笑う。あ、あ、わたし、からかわれたんだ。素直に反応してしまったのが恥ずかしくて逃げてしまいたくなるけれど、強く抱き締められていて抜け出せない。
「すみません、今日はほんとに楽しかったですよ。よしよし、またデートしましょうね」
悔しくてネズさんの胸元にぐいぐいと顔をうずめたら、追い撃ちをかけるように優しく頭を撫でてくるので、わたしは何も言えなくなってしまうのだった。
write:2020.10.17
edit:2020.10.29