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置いていかないで

 ネズさんが誰かに取られてしまうかもしれない。ネズさんは最近、わたしと話しているときでも、わたしではなくどこか遠くを見ている。

 ……大前提として、ネズさんとわたしは恋人なんて大層な関係ではない。わたしがあまりにも不甲斐ないので、仕方なくわたしの元にやって来て色々と身の回りの世話を焼いてくれているだけで、多分ネズさんはわたしに特別な感情など抱いていない。
 でも、優しくしてくれるのをいいことに甘えていたら、最近ネズさんが少しずつ冷たくなってきているような気がする。わたしに興味がなくなったのだろうか。わたしには何の取り柄もないし、一緒にいてもつまらないのかもしれない。わたしがあまりにも駄目すぎるから、ついに愛想を尽かされてしまったのかもしれない。
 だけど、わたしのことをわたし自身よりも良く知っているネズさんにとって、わたしといても何のメリットもないというのはずっと前から分かっていたことで(自分で言っておきながら悲しくなってきたけれど……)、今さらそんな理由で冷たくするだろうか?でもネズさんだって人間だし、わたしに構っていても時間の無駄だって思われてしまったのかもしれない。
 でも、でも、もしネズさんが離れていってしまったら、わたしはもう生きていけない。元々一人ぼっちだったはずのわたしなのに、沢山優しくしてもらって今ではすっかり一人で生きていく術を忘れてしまったし、ネズさんに見捨てられたらそのときはもう死ぬしかない、そんなことまで考えてしまう。だけど、『そのとき』はもうすぐそこまで近づいているのかもしれない。

「──、ちょっと、聞いてますか」
 答えの出ない悩みにうんうんと頭をひねっていたら、悩みの種であるネズさんに名前を呼ばれていることになかなか気がつかなかった。
 ……わたし、寝てた?はっと意識を取り戻し慌てて見上げたら、優しい色の瞳が心配そうにこちらを見つめていた。何か話していたようだけどこれっぽっちも聞いていなかったので、とりあえず瞬きを数回してみる。
「今から買い物行きますけど一緒に行きますか、って誘ったんですけど、またおれの話聞いてなかったんですね」
 ネズさんが小さく溜め息をつく。わたしが上の空だったせいでネズさんの話を遮ってしまったのは今回が初めてではなくて、何度も同じことを説明させているのが申し訳なくて縮こまる。
「大丈夫ですか。最近あんまり元気ねえですよ、ずっと上の空です。おまえのことだから、何かに悩んでいるけれど答えが出せず同じところでぐるぐる悩み続けてるんでしょう」
 す、鋭い。全くもってその通りなので、もはやわたしが考えていることなんてネズさんには全部お見通しだったりして──なんて、そこまですごくはないか。ネズさんはエスパーではない。
「おれでよければ相談に乗りますよ。一人で抱え込んでいても答えは出ませんし、困ったことがあるなら一緒に考えましょう」
 そう言ってネズさんが微笑んでくれる。だけど、ネズさんのことで悩んでいるのに、それを本人に包み隠さず伝えられるほどの度胸はない。
 ネズさん、最近なんだか冷たくないですか?わたしのことなんてどうでもよくなっちゃったんですか?最近ずっとわたし以外のことばかり気にしているような気がして、ずっと心ここに在らずって感じで、寂しくて、不安になるんです。
 わたしはネズさんのことしか考えてないし見えてないのに、もしかしてネズさんにはわたしよりも大事な人がいるんですか。ネズさん、わたしを見て、わたしのことだけ見てください。
 ──そう言えたらどんなにいいだろう。心配も迷惑もかけたくないし、こんなこと絶対に言えないな、と口をつぐむ。結局また俯くしかなくなってしまった。
 確かに悩んではいるけど、ネズさんには何も言えません。ごめんなさい。そう告げたら、それまでは穏やかな顔をしていたネズさんが少しだけ目を見開いた。
「……やっぱりこうするしかないのかもしれませんね」
 ネズさんが一度目を伏せて、それからこちらを真っ直ぐ見据えて口を開いた。
「おれ、しばらく遠くへ行くことにします」
 頭が真っ白になる。突然すぎて返す言葉が何一つ浮かばなくなってしまう。
「ずっと考えていたんですよ。おまえ、最近なんだかおれといると辛そうでしたから。おれが苦しめているのかもしれない、おれたち一度離れてみたほうがいいのかもしれないって」
 ネズさんがわたしから離れていく。そう思ったら、心の中で必死に留めていたものが一気に溢れ出した。
 なんで?どういうこと?違う、そんなこと望んでないのに、わたしネズさんとずっと一緒にいたいのに。待って、行かないで、こんなことになるならちゃんと伝えておけばよかった、待って、わたし、ずっとネズさんのこと──!

 必死にわたしを呼ぶ声が遠くから聞こえて、身体を揺さぶられているのが分かって、今度こそ意識を取り戻した。ネズさんが目を見開いてこちらを覗き込んでいる。ああ、夢、さっきまでのは夢だったんだ……。
「大丈夫ですか?おまえ、ずっとうなされてたんですよ」
 心配そうにわたしを見下ろすネズさんに向かって両腕を伸ばしたら、ぐっと引っ張って身体を起こすのを手伝ってくれた。
 わたし、夢を見たんです。ネズさんがわたしに愛想を尽かして、どこか遠くに行っちゃう夢でした。ぼそぼそと呟く。
「不安だったんですかね。よしよし」
 大きな手に頭を撫でられて、夢の中では言えなかった気持ちがぽろぽろと零れていく。
 だって、ネズさん、最近わたしに冷たかったから、わたし以外に大事にしたい人がいて、わたしを置いてその人のところに行きたいのかと思って。あ、いや、わたしがネズさんに大事にしてもらってるとか自惚れるつもりはなくて、わたしがあまりにも駄目すぎるから仕方なく色々お世話してくれてるだけだって分かってはいますけど。
 でもやっぱりネズさんがわたし以外の誰かを見てると思ったら辛くて、他の人と楽しそうにしているとああやっぱりわたしなんてどうでもいいんだなって、このままネズさんを取られちゃうと思ったらもう何もかも嫌になるんです。
 わたしのことだけ見て、ずっとわたしだけの側にいてほしくて、わたし、ネズさんのこと、ネズさんが思ってるより多分ずっと好きです。すみません、こんなこと急に言ったら重いし迷惑ですよね、でもやっぱりネズさんがいなくなっちゃうなんて無理です、嫌だ、どこにも行かないで……。
「何言ってるんです。おれが仕方なくおまえの側にいると思ってたんですか?」
 ネズさんこそ何を言っているのか分からなくて、綺麗な瞳をぼんやりと見上げる。肩に腕を回されて、至近距離で見つめられて、次の瞬間には身体がぴったりとくっついていた。わたし、ネズさんに抱き締められてる。何、どうして。
「おれはおまえのことしか見てませんし、大事にしたいのもおまえだけです」
 でも、でも、ネズさん、わたしのことなんてどうでもよくて、誰か他の人を想ってるんだとばかり。優しい言葉をかけられてもなお卑屈になってしまうわたしの耳元で、ネズさんが囁いた。
「……心配しなくても、おれ、おまえにしか興味ありませんよ」
 間髪入れず、耳に優しく口づけを落とされる。くらくらするほどの殺し文句と、耳に残る柔らかくあたたかい唇の感触。体温が急激に上昇するのが分かった。わたし、ネズさんに、キス、されちゃった……!
 端から見たらわたしの顔はきっと真っ赤で、何が起きたのか分からず目を白黒させて、さぞ滑稽な姿になっているに違いない。さっきまでとは全く異なる理由で泣きそうになっているわたしを見て、ネズさんが柔らかく笑った。

 

write:2020.09.01

edit:2020.10.29

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