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乾いた唇

 急に名前を呼ばれて顔を上げたら、唇にネズさんの指が触れた。下唇の端から端まで、指の腹でゆっくりとなぞられていく。無意識のうちに薄く開いていた唇の内側に指が入り込んで、すこし湿った部分をふにふにと触られた。それから指は唇の外側へ戻ってきて、乾いた部分に潤いを分け与えるように再び唇の上を動き回った。

 よく分からないけれど、なんだかまるで舐められているみたいな、犯されているみたいな感覚。ネズさんもわたしも一言も発することなく、時計の音だけが辺りに響く。わたしは驚いて声が出せないのだけれどネズさんはどうして黙っているのかな。これはもしかしてキスされちゃう雰囲気なのかな、なんて肩をこわばらせる。勝手に緊張していたら端正な顔が近づいてきて、ますます胸の高鳴りを抑えられない。わたしをまっすぐ射抜く真剣な瞳。視線を一生懸命そらしたり瞬きしてみたりするけれどやっぱり気を紛らわすことはできなくて、どんどん近づく顔をいやでも見てしまう。

 だめ、どうしよう、このままだとほんとにキスしてしまう、もうすぐにでも唇がくっついちゃいそう──。

「唇、カサカサになってますよ。ちゃんとリップ塗らないとだめでしょう」

 ……え?唖然としているわたしなんてお構いなしに、ネズさんは懐からリップスティックを取り出した。わたしの唇に塗ってくれるのかと思ったら、ネズさんは自分の唇にそれを塗る。整った横顔。甘い香り。ぼうっと見つめていたらネズさんもわたしを見た。リップスティックがわたしの唇にも近づいてきて、しっとりとしたクリームがわたしの唇に塗られていく。さっきと同じようにまっすぐ見つめられて、もはや瞬きすらできない。ばくばくと音が聞こえてしまうくらい自分の心臓が激しく動いているのが分かる。待って、だってこれって間接キス……。

「はい、できましたよ」

 さっきから身動ぎひとつできないわたしの肩をぽんと軽く叩いて、ネズさんがまた爆弾を放つ。

「どきどきしました?キスされちまうかもって期待したんでしょう」

 ネズさんは自分の唇をとん、と指差して笑った。心拍数がさらに跳ね上がるのが分かってしまう。頭が、顔が、全身が燃えるように熱い。赤くなった顔を見られたくなくてうつむいたら、にやりとわるい笑みを浮かべたネズさんに覗き込まれた。

「隠したって無駄ですよ、顔にぜんぶ書いてありますからね」

 ああ、何もかも筒抜けだったなんて……。わたしが意識しているのを分かっていてわざとそういうことをするから、ネズさんは本当にずるい。そういうところが好きなんだけど。でもわたしの本当の気持ちは分からないのかな、否、分かっていてなお叶えてくれないのかもしれない。

 本当はこんな形じゃなくネズさんと直接キスがしたいです──なんて、わたしの乾いた唇から正直な言葉が出てくるはずもない。無理やり唇を奪うこともできない。いくじなしな自分が悔しくて、わたしは唇をぎゅうと噛みしめた。

write:2020.07.14

edit:2020.08.01

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