魔法使いの手
お風呂に入るのって苦手だ。衣服を脱ぐのも、頭や身体を洗うのも、お風呂から上がって髪の毛を乾かすのも、何もかも面倒くさい。
わたしは今、浴室を出てパジャマを着たところで力尽きて、脱衣室で座り込んでぼーっとしている。
「もう上がりました?……ちょっと、こんなところで寝たらだめですよ。風邪を引いちまうでしょう」
ネズさんが様子を見に来てくれた。髪の毛を乾かすのが面倒なんです、おにいちゃん乾かして、なんてふざけて甘えてみる。
「まったく、仕方ない子ですね。ほら立って、こっちに来てください」
ドライヤーのコンセントを差して、ネズさんが手招きした。わたしは言われたとおり立ち上がって、ネズさんのところまで行く。
「毛先が傷んでますね。おれのヘアオイル、おまえの髪にも使いましょうか」
そう言いながら、洗面台の棚に置いてあるヘアオイルを手にとった。いつもネズさんの髪から感じるのと同じ香りがふわっと広がる。いいにおい。
「これ、いい香りでしょう。気に入ったなら今度、おまえのぶんも買いに行きましょうか」
長い指に髪を掬われた。根本から毛先へ、大きな手がゆっくりと上下する。なんだか頭を撫でられているみたいだ。
「じゃあ、乾かしますね」
ネズさんがドライヤーの電源を入れた。熱風とドライヤー特有の音がわたしの耳を撫でていく。
「髪の毛は根本から、左右半分ずつ乾かしてあげると早く乾きやすいんですよ」
誰に聞いたのか忘れたけれど、ドライヤーの音というものは赤ちゃんが胎内で聞く音とよく似ているらしい。温かい風と優しい手つきが心地よくて、まぶたがふにゃふにゃとろけていく。
「眠いんですか?もうすぐ乾きますから、まだ寝ないでください」
ドライヤーの音に混じって遠くからネズさんの声が聞こえてくる。まぶたが重い。いけない、このままだと寝てしまう。
「こうやって丁寧に扱ってあげれば……ほら、できました」
ドライヤーの音と熱風が止まった。ぽんと肩に手を乗せられて、目を開ける。
「驚きました?おまえの髪の毛だってつやつやになるんですよ」
ネズさんの指がするりとわたしの髪をくぐり抜けた。いつもより格段に指通りがよくなっていてびっくりする。すごい、ネズさんってもしかして魔法使いなのかなあ。ぽやぽやした頭で変なことを考えた。
「眠くても疲れていても、髪の毛はちゃんと乾かして寝ましょうね」
鏡の中のネズさんと目が合う。優しい瞳に見つめられた。
「ものすごーく疲れちまって動けないときは、おれに言ってください。そうしたら、またこうやって乾かしてあげますから」
ネズさんはいつも、わたしにたくさん優しくしてくれる。それなのにわたしからは何も返せなくて、申し訳ない気持ちになってしまう。
「おまえは何も気にしないで、元気に笑っていてくれればそれでいいんです。おれ、おまえの笑ってる顔がいちばんすきですからね」
ネズさんはうつむいたわたしの頬にそっとキスをしてくれた。顔を上げると優しい笑顔。……魔法、またかけられちゃったかも。
write:2020.06.13
edit:2020.08.01