名前のない関係
「こんなところで寝たら風邪を引きますよ」
ぼやけた意識の中、だいすきな声が聞こえた。ぺちりと頬を叩かれる。でも嘘みたいに優しい手つきだ。眩しくてうっすらと目を開けると、ネズさんがしゃがんでわたしを見下ろしていた。まだ頭がぼうっとする。
「……ここは」
「また床で寝落ちしていたんです。全く、何度言ったらちゃんとベッドで寝る気になるんですか」
ああ、またやってしまった。徐々に現実に引き戻されていく。何時間も硬い床の上に転がっていたようで背中や腰が痛い。部屋の電気もテレビもつけっぱなしだ。大きな木の写真に「放送休止」の文字が添えられたテレビ画面がなんとも寂しい。一体どのくらいの時間ここで倒れていたのだろう。
ネズさんが手を伸ばして、上体を起こすのを助けてくれる。肩に手を当て顔をしかめるわたしを見て、ネズさんが呆れたような顔をした。
「わたしだって本当はあったかい布団で寝たいと思ってます、でも、」
テレビを見ながらお酒を飲んでいたらふわふわと眠くなってしまって、うっかり寝転がったら動けなくなって、そのままずっと意識を失っていた。お決まりの流れだ。
「言い訳はいりません。さあ、ベッドへ行きましょうね」
ネズさんから厳しい言葉をかけられるのもいつも通り。わたしたちはそういう関係ではないので、ネズさんはわたしなんかに笑顔を向けてはくれない。何もかもダメなわたしを見捨てず、こうやって面倒を見てくれているだけでありがたいのだ。一生かかっても返しきれない恩を受けている。わたしはネズさんのことが好きだけど、彼女みたいに扱ってほしい、なんて贅沢は言えない。
ネズさんが立ち上がって、ほら、とわたしに手を差しのべてくれる。わたしを立たせて、寝室まで連れて行ってくれるのだろう。どうせならお姫さま抱っことかしてくれたらいいのになあ、わたしがもしネズさんの彼女ならそういうことしてもらえたかもしれない。あり得ない夢ばかり見るのは悪い癖だ。伸ばされた細い腕を掴んで、なぜかぐいと引っ張ってしまう。ぐらりと傾くネズさんの身体。バランスを崩した彼を受け止めてわたしはまた床に倒れ込む。
「何してんですか!危ないでしょう!」
ネズさんがいつもより大きな声を出した。怖かった。でも怪我をしそうになったら怒って当然だとも思う。そんな当たり前のことも分からなくなってしまったわたしの面倒を飽きずに見てくれるネズさんが可哀想で、申し訳なくて、頭がぐるぐるして、言うべきじゃないことを口走る。
「……こんな何の取り柄もないダメ人間、その辺に放っておいて早く帰ったほうがいいと思います」
ネズさんが目を見開いた。違うんです。そんなことを言いたかったんじゃない。本当は謝りたかったんです。一度口から漏れ出た言葉が返ってくることはないので、慌てて自分で訂正する。
「ちが、違う、すみません、怪我は、」
ネズさんに怪我させるようなことしてしまってごめんなさい。こんなことしたのはネズさんのことが好きだからなんです、お姫さま抱っこしてお布団まで連れて行ってほしいとか思ってたら変なことしちゃったんです。面倒な女でごめんなさい。そんなこと言えるはずもなく、だけどもうすこし気の効いたことを言いたくて、うまく言葉が出てこないことが悲しくて、また自分の世界に籠りそうになった。
ネズさんが無言でわたしの身体を起こしてくれる。そして突然、抱き締められた。は、え、何、どうして。
「おれはこう見えて強いんです、簡単に怪我したりしません。おれじゃなくて、おまえが怪我するようなことはするな、ってことです」
すこし怒ったような声と、これ以上ないくらい優しい言葉。背中をそっと撫でられる。訳が分からない。なんでそんなに優しくしてくれるんですか。こんなクズの面倒を見たって何も返ってこないどころか厄介なことになるだけなのに。わたしなんかに好かれたっていいことないのに。
「おまえはこんな自分どうにでもなれ、って思ってるんでしょうけど、……そう思ってないやつもいるんですよ、おまえのすぐ側に」
そっと身体を離された。今までで一番悲しそうな顔をしたネズさんにまっすぐ見つめられて、胸の奥がきゅうと苦しくなる。居心地が悪くて、なぜか分からないけれど泣き出しそうになって、もう一度ネズさんの胸に顔をうずめてしまう。そうしたらまた緩やかに抱き締めてくれたので、結局今日も眠りにつくまでネズさんに甘えてしまった。その優しさの理由は分からないまま。
write:2020.02.25
edit:2020.08.01