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川を渡る
川の向こうにネズさんがいる。ぼんやりと見えるふたつの影。わたしではない誰かに微笑みかけるネズさんを見て、駆け出した。川岸で摘んだ赤い花を手土産に。向こう岸にたどり着いたら、わたしにも笑顔を向けてくれるだろうか。じゃぶじゃぶと身体が水に浸かっていく。足、腰、腕、あっという間に肩まで濁った水の中へ。この川、なんだか変な匂いがする。
「行くな!」ネズさんの声がなぜか背後から聞こえた。向こう岸のネズさんはまだこちらに気づかない。手を伸ばす。歩を進める。反対側からはわたしを引き留める声。
「向こうに行ってはいけません、少なくとも今はまだ、おまえの行くべき場所じゃありません」
でも、目の前にネズさんが、もう少し、もう少し行けばネズさんがわたしを見てくれるのに。足がぎりぎり届くか届かないかくらいまで川底が深くなって、つま先立ちで尚も進む。息が苦しい。
「それ以上進んだら足が付かなくなりますよ」
ネズさんに一歩でも一センチでも近づきたくて、泥まみれの靴がたくさん浮かぶ川を行く。
「おまえの居場所はこっちでしょう、早くおれの元に帰ってきてください」
ぬかるみに足を取られてバランスを崩す。冷たい水を飲み込んでしまう。苦しい。溺れる。道半ばにしてわたしは沈んでしまうのか。死ぬのなんて怖くないと思っていたのに、いざ死にそうになると藻掻いてしまうのはどうしてだろう。苦しい。助けて。片方の靴が脱げて水面へ浮かんでいった。
はっと意識を取り戻す。ネズさんが泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいた。
write:2020.09.21
edit:2020.10.29
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